話は今から44年前に遡ります。
第1号車(初代)サイエンスカーは、理センが誕生してから8年後の昭和46(1971)年9月に配置されました。
同じ年度には、札幌市営地下鉄が開業(1971年12月)し、札幌オリンピックが開催(1972年2月)されるなど、北海道も列島改造の流れに乗る中、当時の北海道知事が道内のへき地小規模校の児童生徒に、科学する心を育てようと、サイエンスカーを国に要請したことが記録に残っています。「へき地はあってもよいが、教育のへき地をつくってはいけない」という熱い思いがつづられていました。
昭和46年9月21日サイエンスカーの命名式が赤レンガ前で行われ、当時の教育長さんから「コメット」という名前をいただきました。下の写真は、道庁前で行われたテープカットの様子です。
初の稼働は、お披露目からわずか6日後の昭和46年9月27日!石狩管内当別町二股小中学校でした。
子どもたちの感想文には、「コメット号の感想を一言でいうと、『すばらしい車』、『子供の夢をつんだ車』といえるだろう。」と書かれていました。
教員が寄せてくれた手紙にも、「社会的経験が少ない子どもたちにとって新しい科学に触れ、誠に貴重な経験だった。私たちにとってもよい経験であった。これを契機として理科教育の充実につとめていきたい。」とありました。
当時のサイエンスカー担当者の苦労話が残っています。 「札幌を出発し、立派な道路からわき道に入り、田園の中や曲がりくねった山道をコメット号は走る。ソロバン道路とはよく言ったもので、思わず足をふんばり椅子にしがみつく。車内の展示物に異常はないかと監視しながら、ひた走りに目的地に向かう。」
当時は、第一次オイルショック時代。旅の途中での給油はよく断られていたことも書いてありました。 それでも、子どもたちの取り組む姿や食いるような眼差しに、明日への力がわき上がると今と変わらぬ熱心な姿があったようです。
その中でも子どもたちの一番人気は、「電子レンジ」でした。一瞬でものが温まる様子に感動していたことが書かれています。そして、2番目は「テレビ電話」、3番目が「卓上型電子計算機」だったようです。
サイエンスカーの内部を写真で紹介します。
これらの資料は、道研の資料室に大切に保管されています。今回、3代目サイエンスカーのラストランを迎え、これまでの歩みを少しだけ振り返ることにしました。不定期で更新していきたいと思います。
初代サイエンスカー担当者は私たちに向けて、こんなメッセージを残してくれています。
「子どもたちの科学に対する夢と期待を満たすため、研鑽をつまれ、精力的に走り続けてほしい。」
初代サイエンスカー「コメット」
◆稼業期間 S46~S53
◆巡回学校数 596校(ご苦労様!)
◆対象児童生徒数 16,392名
(第2話へつづく)